実世界中にコンピューターをあまねく存在させるユビキタスコンピューティング
あらゆるモノがあらゆる場所でネットワークにつながるユビキタスネットワーク
Don Normanはコンピューターがあらゆるapplianceに消えると言った
携帯電話がコンピューターを内臓した機械だと思わない様に
しかし文字通りコンピューターをそうやって消してしまったら??
Windows And Mirrors: Interaction Design, Digital Art, And the Myth of Transparency (Leonardo)
J. David Bolter Diane Gromala
INTRODUCTION
ウェブを巡ってDavid Siegelは「どれだけ中身がすごくても読みやすくなければ誰が見てくれるものか?」と言う。Jakob Nielsenは「ユーザの目的は究極的には中身であり、例えば劇場を後にした時、客に口にして欲しい会話はどれだけ衣装が素敵だったかではなくどれだけ劇そのものが素晴らしかったかということだ」と言う。Nielsenにとってはグラフィックは無用で、ウェブはただ情報を提供する透明なパイプ的役割であればいいと考えている。Normanはコンピューターがapplianceの中に消えていくと言う。携帯電話がコンピューターを組み込んだ器具だと感じない様に。コンピューターはしかし器具というよりはメディアである。applianceというよりも本やアルバム、テレビに近い存在である。デジタル作品は透明性と反射性の間を行ったり来たりし、インタフェースを透明にするというNielsenやNormanの思い込みは違う。フォームとコンテキストを切り離そうとすることの無意味さ。デジタルアートは効果的なデザインを達成する一つの鍵になる。
CHAPTER 1 TEXT RAIN
"To design a digital artifact is to choreograph the experience that the user will have."
SIGGRAPH2000で展示されたTEXT RAIN
プロジェクションされた壁にある詩の文字が上から雨の様に降ってきて映っている自分の影で文字を集めたり出来る作品。デジタルアートは大概他のデジタル製品の様にコンピューターのスクリーンを通して"あちら側"を見るwindowであるといえる。しかしTEXT RAINは同時にmirrorでもあるのだ。文字を操作する様子は瞬時に返ってくる(reflective)。
デジタルアート作品はインタラクションデザインの実験である。
コンピューターの画面を視覚世界への窓と考える。テキストや音、画像などコンピューターが見せる世界に集中する時、ユーザはマウス等のインタフェースを忘れる。しかし、機能させるためにはインタフェースを見ていなければならない時もある。その時、インタフェースは窓ではなくユーザとコンピューターの関係性を反射する鏡になる。映画を見るとき:没頭して映画を見ていることすら忘れる、一歩ひいてどうやって映画が出来たのか考える、後者の自覚性は映画の経験を深める。
”...digital art is precisely the kind of interface that both reflects and redefines contexts."
CHAPTER 2 Wooden Mirror
透明性の追求
絵画は経験を提供するもの。絵画において透明性を追求するということは、本物の世界を見ている様に思わせるということである。明確さや単純さを望むのもある種の透明性の追求といえる。活版印刷において、何百年もの間、印刷された本は文字ではなく私達がページに目を通す様にデザインされている。読者は本にある言葉の意味に集中するもので、その言葉を運ぶものであるフォントには注目すべきでない。活版技術者のJan Tschiholdは活版印刷において重要なのは明確性(clarity)であり、印刷されたものを直接的に、純粋に表現するこが大事だと言った。Nielsenのウェブの話と重なる。
CGとインタフェースデザインはこの透明性の歴史に続く。リアル世界を追求したとき、CGアニメの人間が実物の様になったとき、画面やビデオ機器といったメディアは消える=透明になる。ファイルをクリックすると「開いている」と感じさせるように、GUI自体がユーザをコンピューターとinteractしやすくする錯覚といえる。Macintoshのインタフェース(サイズが変えられて重ねられるウィンドウやシンプルなアイコン):使い方が自然になれば、インタフェースは消える。
透明性は機能性と相容れない。
より自然なインタフェースを求めて(to be "true to nature")、現在の平面GUIを3D視点にする提案、パソコン画面に座る必要を無くす提案がある。視覚化されたデータ、つまりバーチャルリアリティに身を投じて手でデータを探したりつかんだりするものだが、本当にこれは自然なのか。インタフェースが易しいか効率的であるかというのは、そのインタフェースが何のためのものかによる。よって、何が自然とは言い切れない。デザイナーとしては、インタフェースを時々消したい。だが、完全にではない。ユーザは意識下のどこかでは常にコンピュータを操作していると感じてなければならない。
完全な透明性は危険な問題である。ユーザがコンピュータシステムが何をしているか知りたい時にそれを覆ってしまうから。何か予期せぬことが起きたときにユーザはインタフェースを見れる必要がある。
Wooden mirror
ビデオカメラが顔を捉え、木製タイルで出来た鏡に近づくと、コンピューターを介して木片が顔を表す作品。Wooden mirrorは透明ではない。
疲れたから今日はここまで。
2007年5月4日金曜日
Windows and Mirrors
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